お久しぶりです。
こんにちは。一年以上ご無沙汰しておりました。お久しぶりです。
長いことブログの更新をしていなかったのですが、これから、また記事を書こうと思っております。
このブログは、心を病んでしまった僕がある民間の催眠療法を受けたあと、その体験談を書くための場所として始めました。その後は、僕が心の病の「治療」を受けてきて感じざるを得なかった精神医療・心理療法への疑問を書いていこうと思っていました。
詳しいことは当該記事に書いてありますが、その催眠療法を受けるきっかけとなったある漫画があります。
その漫画は、うつ病になってしまった男性が自身のうつ病が治るまでのことを描いたもので、うつ病になった主人公が最終的にうつ病を治してもらったのが、その催眠療法でした。
今年の一月ごろに、その漫画を紹介するある方のツイートが大いに拡散されるということがありました。
僕が書いた体験談の記事は、あるTwitterのアカウントでツイートしていたのですが、漫画を紹介する大注目されたそのツイートに、僕のその記事のツイートを引用して張り付けてくださった方がいて、元のツイートが拡散されるのと同時に僕の記事もたくさんの方の目に触れることになりました。
このブログの閲覧数も、それまでひと月に数名程度でしたが、そのツイートが拡散された日に、その一日だけで1万人以上の方がこのブログを訪れてくださったようです。
僕自身、例の催眠療法を知った際、受けるかどうかとても迷いました。その理由の一つが、その催眠療法を実際に受けた方の口コミがほとんどなかったことです。
そのため、もしその催眠を受けるかどうか迷っている方がいたら、その方の参考になればいいなと思い、記事を書きました。(他にも理由はありますが…)
ですから、漫画と同時に僕の記事が拡散され、実際に迷っていた方が参考になったとコメントしていただいたりしたことを、とても嬉しく思います。
遅すぎるかもしれませんが、例のツイートを引用して貼り付けてくださった方、そして、その記事にはてなスターやコメントをいただいた方々に、この場でお礼を申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。
その体験談の記事の後、認知行動療法に関する記事を書きましたが、その後は更新をしておりませんでした。
それは、残念ながら、僕のメンタルが治り、心の病に関する発信をする気にならなくなったからではありません。今までの僕のメンタルヘルスに関することは次回以降に記事にしたいと思いますが、僕の心はほとんど回復することもないまま現在に至っています。
ブログを更新しなくなったのは、書く気になれなかったからですが、その時に僕が考えていたのは、書いても仕方ないだろう、ということでした。
僕自身が病んだ心を癒す方法を見つけられなかった。心の病をちゃんと治せる方法がわからないなら、何を書いてもブログを見てくれた人を助けることはできない。
元々誰かを助けるために記事を書こうとしたというよりは、僕が実際に経験した精神医学があまりにも効果がなく、そのことへの憤りを形にしたい、という個人的な理由で記事を書いていたところがあります。ですが、それ自体も含めて、「そんなことをしても仕方がない」という思いになっていました。
もちろん、僕と同じように心を病んで苦しんでいる方が共感できるようなものを書けば、それを見てその方は見て嬉しい気持ちになってくれたりするのかもしれませんが、それはあくまで「病んでいる状態で少し嬉しくなるだけ」であり、心の病が回復することとは全く別です。
それだけでも価値はあるのでしょうが、僕はどうしても記事を書く気にはなれませんでした。
残念ながら、人間の病んだ心を癒す方法というのは、今もまだわかっていません。
当然です。専門家である医者が見つけていないのですから。僕のような素人にわかるわけはないのです。
ですが、最後の更新から一年以上の月日が経ち、僕を取り巻く環境も変わってきて、ある考えに至りました。
それは、
「僕自身は心の病を癒す方法はわからない。だが、患者として実際に苦しみ、薬を飲んでみたりした経験は、治療法を見つける仕事をしている医学にとっても有用なのではないだろうか」
ということです。
患者としての視点から精神医学の進歩に役立ちそうなことを書き、それをTwitterなどで発信すれば、それに賛同してくれる方が拡散してくれるかもしれない。そして、精神科医の目に触れることがあるかもしれない。
ありがたいことに、例の漫画のツイート以降、全然更新していないこのブログの読者になってくださった方や、このブログの記事をツイートしているアカウントをフォローしてくださる方がいらっしゃいます。こちらの方々にもお礼を申し上げます。本当にありがとうございます。
そして、このブログの記事が医者の目に触れることがなくても、書いた記事と同じ意見の方が記事を見てくれれば、少しでも嬉しい気持ちになってくれるかもしれない。
そのような思いに至り、またブログの記事を書く気が湧いてきました。
以上のような経緯から、またブログを更新していきたいと思います。
更新頻度は高くないですし、また更新をお休みすることもあるかもしれませんが、自分のペースで書きたいときに記事を書いていこうと思います。
賛同できる記事にははてなスターやコメントをいただけると大変嬉しいですし、もし拡散していただけるなら大変ありがたく思います。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
認知行動療法批判
認知行動療法(CBT, Cognintive Behavioural Therapy)は、おそらく現代でもっとも有名な精神療法だと思う。
いわゆる「薬以外」で心の病を治す方法として、心を病んでしまった方は、一度は聞いたことがあるのではないだろうか。
「認知行動療法」と検索すると、やけに難しい説明が出てくるが、シンプルに言うと下の図のモデルに基づいている*1
具体的に言うと、以下のようになる。
そして、上のモデルを当てはめるに際し、患者が「いつ、どこで、どのようなときに」苦痛を感じるのかを徹底的に分析する。
この療法をまとめると、
「世の中のあらゆる事象には、本来良いも悪いもない。それを区別しているのは人間の認知であり、認知が歪んでいると、本来ストレスにならないものまでストレスに感じてしまう。そこで、認知の歪みを矯正し、行動を変えていくことで、ストレスや自身の苦しみを克服していこう」
ということになると思う。
心を病んで苦しんでいるみなさんは、これを見てどう思われるだろうか?
ウィキペディアでは、
認知行動療法は、うつ病、パニック障害、強迫性障害、不眠症、薬物依存症、摂食障害、統合失調症などにおいて、科学的根拠に基づいて有効性が報告されている[4][5]。また自殺企図を半分程度に減少させる[6]。
と、効果的な治療法として紹介されている。
果たして、本当だろうか?
僕は、この認知行動療法に対して、心の病に有効な治療法ではないと思う。
これで患者を助けられていると思う医者や心理士がいれば、とんでもないと言いたい。
このことについて、これからその理由を述べたい。
- 1. 心の病との関係は?
- 2. 認知は必ず気分・感情に先立つのか?
- 3. 逆効果になることも?
- 4. 認知(自動思考)は人為的に変えられるようなものなのか?
- 5. これは「治療」というほどのことなのか?
- 6. では、なぜ効果があるのか?
- 7. まとめ
- 8. 認知行動療法がもてはやされるようになった経緯
1. 心の病との関係は?
まず、上のモデルは、心の病になってしまった人に限らず、健康な人にも当てはまるはずのものだ。
そして、心を病んだ人と健康な人について、同じモデルが用いられている。
では、認知行動療法は、心の病の何を軽減させてくれるのだろうか?
考えられることは3つある。
1つは、
「『気分(感情・身体反応)=症状』として、認知の歪みの矯正によって症状自体を和らげる」
というものだ。
例えば、うつ病の場合、症状としてあげられる
- 抑うつ気分
- 意欲の低下
- 焦り・不安
- 感情の喪失
などの心(精神)の症状や、
- 睡眠障害
- 倦怠感
- 食欲低下
- 頭痛・吐き気・肩の凝りなど
といった体の症状を、モデルの「気分」の部分に当てはめ、認知を変えることでそれらを軽くする、というものである。
だが、これにはどう考えても無理がある。
実際にうつ病になってみればすぐにわかると思うが、
うつ病の症状は、何もしていなくてもその人を苦しめ続けるものであり、出来事によって引き起こされるものではない。
そして、
苦しみの前に常に認知(自動思考)があるわけでもない。
症状や苦しみは、それそのものが心を病んだ人の精神に居座り続けているのであって、これは健康な人の気分の落ち込みや不安な気持ちなどが一時的であるのとは根本的に異なるのだ。
一方、適応障害や、いわゆる「不安系」、パニック障害や恐怖症など、特定の状況下で苦しみが発生するものには当てはめることができる。
しかし、その場合、モデル自体が現実と合致していないのではないかという疑問を感じる。このことは後で述べる。
2つ目に考えられるのは、
「認知によって生まれる悪い気分がストレスとなり、これが心の病の原因となるので、それを軽くすることで心の病の原因を取り除く」
というものだ。
これをモデルで表すとこうなる。
「気分」のところがストレス*2になる。
この場合、「ストレスが減れば自然に心の病も軽くなる」のだとすれば、認知行動療法は効果があると言える。
しかし、1つ目の適応障害や不安系の症状についても当てはまるが、ここで大事なのは、この方法で実際にストレスを軽減できる(=心を病んだ人が楽に感じられる)のかどうかだ。
つまり、「認知を変えればストレスは本当に減るのか」、「本当に認知は任意に変えられるのか」、「そもそも認知は必ずストレスに先立っているのか」など、数々の疑問がある。これは後で詳しく見ていきたいと思う。
3つ目は、
「歪んだ認知(自動思考)=症状」であるとみて、心の病で狂ってしまった認知を意識的に作り変える、 というものだ。
確かにうつ病の症状を見ても、
- 自責の念
- 悪いことばかり考えてしまう
といった、思考に関する症状がある。これらをもし人為的に矯正できたとすれば、どうなるだろうか。
1つは、数ある症状の中から思考に関するものだけ改善される場合だ。
意欲の低下・不安感・感情の喪失はそのままで、世の中の出来事を健康な人と同じように認知できるようになる。
もう1つは、先ほど書いたように、認知が矯正され、ストレスが減ることで心の病が回復していく場合である。
どちらにしても、理論上は(もし実現するならば)夢の治療法だ。だが、あくまで理論である。
そもそも、認知の歪みが思考という一見なんとかなりそうなものだからと言って、これが症状である以上、それだけが人為的に何とかなるということがあるだろうか。
これだけ見てもわかる通り、この療法の理論(モデル)と心の病の症状や苦しみがどのように関係しているのか、はっきりしていないところがある。少なくとも僕が接した医師・心理士・専門書が、それをはっきり示してくれたことはなかった。心の病の何を治すのかが曖昧なのだ。医師という理系の権威ともいえる方々が生み出した方法にしては、論理的明確さがないように思う。
さらに、どうもこの療法は、理論上は(モデルの上では)うまくいくのかもしれないが、実際にはうまくいかないように思われる。そこには、理論そのものに間違いがあるという気がしてならない。
これから、理論そのものへの疑問について述べて行こうと思う。
2. 認知は必ず気分・感情に先立つのか?
先ほどのモデルを再掲する。
このモデルを説明するときによく言われることがある。
「世の中もあらゆる物事や出来事には、いいも悪いもありません。人間が意味づけているのです。ですから、考え方さえ変えれば、だいぶ楽になりますよ」
みたいなことである。
だが、例えば、虫嫌いの人が毛虫を見かけたときのことを考えてほしい。
(リンクに飛ぶとこの先の話が分かりやすくなるかもしれません^^)
その人はきっと毛虫を見かけた瞬間、嫌な気持ちになっている。少なくとも思考が挟まる余地はない。
(ばっちり写真を見てしまったみなさん申し訳ありません^^)
むしろ、思考(言語)は気分の後から来るのではないか*3?
「こいつ何でこんな毒々しい見た目なのかな」
「触ったら手がとんでもないことに…」
「これが服の中に入ると思うと…」
など。
まずは嫌な気持ち、というか生理的嫌悪感みたいなものが最初に反射的に来て、その後に言語が来る。言語はそんなに早く反応で出てくるものではない。
ところが、認知行動療法では、思考が先に来るかのような解釈をする。
- 出来事 毛虫を見つける
- 認知 「刺されたらどうしよう…」
- 気分 嫌な気持ちになる
- 行動 毛虫を避けて通る
まあ、おそらくこの療法を施している人も、思考がそこまで早く来るものではないというのはわかっていると思うので、正確には「毛虫を認識した後嫌悪感が湧いてくるまでの一瞬の間の心の中を言葉にしてください」という意味で認知というものを用いているのだと思う。
だが、このモデルはさも思考や言語によって「嫌な気持ちが生まれる」かのような表し方であり、それは間違いだ。たとえ認知が出来事と気分の間に存在したとしても、それは反射である。思考ではない。そういう考え方の方が皆さんの共感を得られるのではないだろうか。
ただ、このモデルは、実際に正しいかどうかはともかく、「毛虫への苦手意識を克服する」(山奥の虫が出まくる旅館で働かなければならない人など)ためには役に立つのは事実である。
これに対する認知行動療法の一例としては、
- まず認知療法として「毛虫には素手で触らなければ害はない」ということに本心から納得する。
- 次に、行動療法として、毛虫に慣れるように頑張ってみる。毛虫をしばらくの見続けるとか、ゴム手袋をしてつかんでみるなど。
このようにして、簡単に言うと毛虫に「慣れる」ことで、そのうち毛虫を見た時に起きていた反射的な嫌悪感自体が湧かなくなってくるのだ。
この一連の流れを並べるとこうなる。
- 出来事 毛虫を見つける
- 気分【反射】 嫌悪感が湧く
- 思考 「毒々しいな、触りたくないな」
- 行動 毛虫を避ける
これに認知行動療法を施すと、
- 出来事 毛虫を見つける
- 気分【反射】 嫌悪感が湧く
- 思考を矯正 「素手で触らなければ害はない」
- 行動を矯正 がんばって毛虫と触れ合う
- 結果 反射的に起こっていた嫌悪感そのものが減る
つまり、「『慣れる』ために思考や行動を何とかする」のが認知行動療法であり、「認知を別の言語で置き換える」というのとは少し異なる。嫌悪感がなくなった後毛虫を見た場合、
- 出来事 毛虫を見つける
- 気分【反射】 嫌悪感があまり湧かない
- 思考 「別に触らなきゃ大丈夫だし、なんだかかわいく見えてきたぞ」
- 行動 毛虫に構うことなく生活する
というように、反射で嫌悪感が湧かなくなったからこそ思考が変化するのであり、認知行動療法で当てはめようとした思考が受け入れられるのである。それを「認知の変化」と表現できないことはないが、あくまでそれは反射なのであって、自動思考自体は気分の後に生まれるものである。
この例ではわかりやすく毛虫をとりあげたが、毛虫に限らず、人間のあらゆる感情は何かを認識したと同時に湧いてくるものだと思う。例え毛虫じゃなくて苦手な人だろうが、苦手な状況だろうが、環境に応じて無意識のうちに勝手に湧いてくるのが気分であり、感情であり、症状・苦しみである。
なぜこんなことを強調しているのかというと、和らげる対象がストレスであれ症状そのものであれ、大事なのは反射・反応が変化することであり、反射的に嫌な気分・苦しみが湧かなくなることであるということを確認するためだ。それに必要なのは「慣れ」である。
それは逆に言うと、いくら思考をいじったところで嫌な気分が改善しなければ意味がないのであり、「慣れ」が働かなければ思考・行動を頑張って矯正したところで気分は変わらないのである。
ところが、例のモデルからだと、認知の変化そのもの、もっと言うとプラス思考になること自体が目的であるような印象を受ける。だが、特に心を病んだ人にとって、プラス思考をした方が苦しくなる場合もある。
それも含め、認知行動療法は、認知・行動の矯正自体が目的になると、心を病んだ人を楽にするためには逆効果になってしまうこともあると僕は思う。その理由を次に述べたい。
3. 逆効果になることも?
前述のとおり、認知行動療法で苦手な出来事を克服するということは、「思考・行動を変えることで苦痛を和らげ、その出来事に耐え、慣れるのを待つ」ということに他ならない。
これはすなわち、「何とか耐えてればそのうち慣れる」ということが前提である。逆に言うと、「思考を変えても苦しいまま」「いくら耐えても慣れない」ならば、治療を受けた人はいたずらに苦痛に耐えただけで、むしろつらい思いをすることになってしまう。
特に心を病んでしまった経験がある方は、その時のことを思い出してみていただきたい。
あなたは心を病んだ時、頑張って当時のつらい環境に居続ければ、そのうち慣れていただろうか?
そのつらさは、思考や行動の変化で和らぐようなものだっただろうか?
例えば、勤務先で適応障害を発症し、朝も起きれない、会社では体が震える、など会社に対して大きな苦しみを感じている人がいるとしよう。
その人に対し、何とかして仕事に耐えさせようとして、「上司はあなたを攻撃したいわけではありません」「全てを抱える必要はありません」というプラス思考を無理に当てはめようとしたら、どうなるだろうか?
その人の苦しみは、減るどころか、むしろ増えるのではないだろうか?
もしかしたら、「私はそうやって言われると心が楽になるんだけど…」と思った方がおられるかもしれない。ここが、心が健康な人と病んだ人の違いである。
心を病んで苦しんでいる人にとっては、その症状がうつ状態であれ不安であれ対人恐怖であれ、それに抗うことをやめて素直に休んでいた方が楽なのだ。
いったん心を病んでしまうと、もはや思考・行動をどうにかするぐらいではその苦しみはどうすることもできないのである。
「ストレスとなる環境にいるだけで反射的に苦しみが生まれ、それは思考・行動ではどうにもならず、そこにいることが耐えられないし、頑張って耐えていても慣れるどころかどんどん苦しくなっていく」のだ。
そんな人にとって、症状や「認知の歪み(マイナス思考)」というのは、その人がストレスを放棄して休息をとるための体のサインともいえる。
これは、風邪の症状とも似ている。熱・のどの痛み・倦怠感などは苦しい。苦しみを避けるために素直に寝ていればそのうち治るが、苦しみを何とかしてごまかして行動すると風邪をこじらせてしまうこともある。
そして、認知行動療法は、風邪の人に「そのうち治りますから」と言って働かせようとすることに似ている。もっと言うと、風邪を引いた人に風邪の原因となった寒いところに居続けさせようとしているのに近い。
そういう人に、無理やりプラス思考を当てはめてしまうと、休む方向に思考が向かなくなってしまう。全く意味のない、悪い方にしか行かない我慢を強いることになり、結局苦しみに耐えられなくてリタイアすることになる。
もし心を病んだ人が楽になるようにその人の思考を変えるとすれば、「休んでもいい」「苦しい時は家にいよう」「我慢することはない」のようなものであり、それは慣れを当てにして苦手を「克服」する認知行動療法とは全く異なる。
そういう苦しみのさなかにいる人に認知行動療法をすると、何とかしてストレスに慣れさせようとする試みは逆効果になるのだ。それは、苦しんでいる当事者に本当につらい思いをさせることになる。
4. 認知(自動思考)は人為的に変えられるようなものなのか?
さらに、これは今までの話と少し被るが、認知行動療法では、思考を変えるために「客観的分析」といういかにも理科的な手法を用いる。
具体的に言うと、
「毛虫は危険なのではないか」
という思考に対し、
- 何故そう思うのか?(根拠)
- 実際はどうだったのか?(反証)
- この先もそうなのか?
など、自分でその思考に反論することで、自動思考を打ち消すことが技法のひとつになっている。
「毛虫は毒の毛が生えている」「昔指されて手が腫れあがったことがあった」などの根拠に対し、「手袋をつければ大丈夫」「長袖を着ていれば大丈夫」「毛虫が自分の上に落ちてきたことなどない」などと反論することで、今までの固定観念を破壊し、新たな思考を植え付けよう、というのである。
簡単に言うと、自分で納得できれば思考は変わるのであるが、逆に言うとどんな理屈があっても気持ち悪いものは気持ち悪いのであり、その感情が堅いものならばそれらの反論は受け入れられない。
「やっぱり気持ち悪くて無理!」には理屈もかなわないのである*4。
そして、心を病んだ人にとってのストレスや苦しみは、特定の環境では頑として存在する。その苦しみに対して、理屈や正論なんぞがどれだけ効果を発揮するかは疑問である。
心を病んだ人にとっては、認知も思考も行動も、簡単に変えられるものではないのだ。その人を支配する巨大な苦しみに対しては、理屈など歯が立たないに違いない。認知行動療法をやってみようとしたところで、そもそも思考を変えることすらできないことも多いのである。
5. これは「治療」というほどのことなのか?
繰り返しになるが、結局のところ認知行動療法というのは、「できるだけ楽になるように考え、慣れるまで頑張って待つ」ということになる。
しかし、「楽になるように考える」ことなど、誰しもがある程度自分でやっていることだ。心を病んで苦しんでいれば、誰しもが少しでも楽になりたいと思うものである。
この療法が役に立つのは、その原理というより、
- 医師・心理士が付きあってくれる
- 目標までステップを設定してくれる
など、医師・心理士がトレーナーになってくれるところだ。
「ひとりで何かを克服するのは大変だけど、二人なら頑張れる」という意味で、ダイエットや家庭教師のような役割をしてくれる。
しかし、逆に言うと、医師や心理士はトレーナー以上の役割を果たしてくれることはない。相談に乗ってくれたり、励ましたり慰めてくれたりはするが、それだけだ。外科のように医師が手術で治してくれるわけではなく、苦痛を和らげてくれることもない。
つまり、あくまで患者が克服しようと思っていることが前提であり、その意志さえも失ってしまった人を救うことはできないのだ。手術後のリハビリに似ているところがある。
また、特に心を病んでしまった人の場合、元々努力家で、自力で立ち上がろうとすることも多い。味方がいてくれるのはありがたいかもしれないが、そういう人は、トレーナーがいなくても何とかしようと思える。
トレーナーが役に立つとすれば、「オーバーワーク(無理)を防ぐ」ということかもしれない。心を病んだ人は復帰に際して無理をしてしまうことも多く、それを「諫める」ことはできる。
しかし、当事者になってみればわかるが、「病んだ人が無理をする」のは、「余裕のなさ」「焦り」によるところが大きい。「無理をする」のは完全に治っていないことの証拠であり、症状の一種であるともいえる。それに対し、「無理はしないでね」と言うことに、どれだけ効果があるだろう。
そして何より、トレーナーをするだけならあのモデルは必要ない。「無理のない程度にがんばってください」ということだけですむわけで、少なくとも認知療法は関係ない。実際の認知行動療法でも、認知に関する部分はペーパーワークなどで自分で行うのである。これがえらく面倒なのだが、手間がかかることはここでは触れないことにする。
6. では、なぜ効果があるのか?
ここまで批判してきた認知行動療法だが、どうやら受けた人が効果を感じているのも事実らしい。もし僕が思うように認知行動療法に患者を助ける力がないのだとしたら、実際に受けた人が効果を感じていることには説明がつかない。
なぜ、実際に受けた人がある程度効果を感じているのだろうか?
考えられることの1つは、
「心の病が自然に治っていく時期にこの療法を行うので、効果があるように感じてしまう」
ということではないだろうか。
まず、精神療法は、その効果の測定はあくまで患者の主観をもとに行われる。
たとえば内蔵の病気やケガなどは、レントゲンなどで障害のある器官の修復度が客観的にわかる。
しかし、障害を負ったのが精神である場合、それがどれだけ障害を負っているのか、どれだけ修復したのかはあくまで患者の主観でしかわからず、その効果も自己申告である。
せいぜい「治療前の苦しみを10としたら今はどれくらいですか」と数値化できるくらいだ。
であるから、「ある療法をやっていて、その時期に患者が楽になったと感じている」ならば、それをその療法の効果だとみなしているが、それが本当に療法のおかげであるかどうかは怪しいのである。相関はあっても、因果かどうかはわからないのだ。
先ほども述べたが、認知行動療法ができるのは、少なくとも「『病んだ自分を何とかしたい』と思えるくらいには元気になっている人」に限られる。そういう人がこの療法をやるわけであるから、この療法をやっている時期にこの療法がなかったとしてもある程度元気になっている可能性はあるし、この療法がなくても「慣れる」まで頑張れていた可能性もある。
もう一つ、効果を感じさせる理由としては、
「患者の行動によって治療の効果を測る場合、見かけ上は治っているようにみなすことができる」
というものだ。
認知行動療法は、先述のとおり、患者にストレスや苦しみが起こる「場合」について徹底的に調べる。
例えば、「朝、出社の際に電車に乗ると、動悸が激しくなるので電車に乗れない」人の場合、「朝、出社の際に一駅分だけ電車に乗ってみる」「出来たら次は二駅分」というようにできることを増やしていく。
そして、「以前は一駅分も乗れなかったが、『治療の結果』会社の最寄り駅まで乗れるようになった」
として、これを治療の効果とする。
確かに、その人は電車に乗れるようになっている。
だが、この効果は永続的なものだろうか?
医師や心理士と一緒に取り組む間は何とか一生懸命頑張ることができても、医師から離れ、再び一人で出社せねばならなくなったとしたら、しかもこの先ずっとそうだとしたら、心が折れてしまう人もいるのではないだろうか?
そういう人たちが再び苦しむようになったとして、そのことが治療のデータに残っているのか疑問である。
また、たとえ結果的に電車に乗れるようになったとして、電車に乗っている時の苦しみは軽減されているのであろうか?
電車に乗れなくなってしまった人は、あまりの苦痛に耐えられずにそうなってしまっているのである。その人を、「第三者の手で半ば強制的に苦痛に耐えさせる」というのがこの療法だ。思考や行動(深呼吸など)で多少和らげられたとしても、その苦しみは大きなものである。「慣れ」が機能してくれればそのうち楽になってくるかもしれないが、逆にどんどん苦しくなってくることもありうる。
その結果は、「電車には乗れるようになったけどものすごく苦しい」かもしれないのであり、それでも乗れるようになっていれば「治療の効果」として評価されるのであり、この療法の「科学的根拠」になるのである。
それでたとえうまくいったとしても、それは「慣れ」のおかげであり、認知行動療法が「慣れ」を機能させたわけではないのだ。「慣れ」が利くかどうかは、療法には関係なく、運によるとも言えるのである。
また、もし一時的に「慣れ」が利いたとしても、医師・心理士が離れて以降も効果が続いているかどうかはわからない。どこかで耐えられずにまた以前のように戻っているかもしれない。
つまり、認知行動療法の「効果」は、
- 認知行動療法によるものではない
- 一時的に効果があるように見えているだけ
- 本当に助けてほしいところへの効果ではない
のどれかである可能性があるのだ。
もし精神療法が、本当に心を病んだ人を「助ける」「救う」ためには、
- 苦しみそのものを軽減させる
- 利かない人の「慣れ」を機能させる
ようなものでなければならない。だが、病んだ人に一切触れずにそんなことが果たしてできるだろうか。やはり、これには薬などの摂取物や、外科的な処置の方が望みがあるように思われる。
7. まとめ
全体的に小難しくなってしまった。
ここまでの話をまとめる。
- 認知行動療法は、現在主流の精神療法で、効果的だとされている。
しかし、
- まず心の病の何を治療するかが曖昧である。
- その原理であるモデルは、現実と乖離しているのではないか。
- 苦しみの真っただ中にいる人には用いることができず、無理に用いると逆効果になることも
- 「認知を変えられるかどうか」はこの療法では変えられない
- 結局、この療法の効果を左右するのは、この療法では扱うことのできない部分(無意識、「慣れ」「やる気」など)である
- 数値としては効果を上げていたとしても、この療法が本当に心を病んだ人を助けているかどうかは甚だ疑問である。
8. 認知行動療法がもてはやされるようになった経緯
ここからは余談になる。
それでは、なぜこの認知行動療法は、精神療法の主流になったのだろうか?
もともと、精神療法は、有名なフロイトが19世紀末(150年ほど前)に生み出した「精神分析」というものが主流であった。
これは、簡単に言うと、「患者の『無意識』にある心理的葛藤を、自由な連想や夢の分析によってあぶり出す」ことで患者の苦しみを癒す、というものだ。
これは当時ある程度病んだ人を救ったらしいのだが、
- 習得するのが大変
- マニュアル化することができない(方法が人によってバラバラ)
- 効果があったのかどうかがわかりにくい
など、各方面から散々な批判を浴びていた。
特に、精神分析が「無意識」という「測定不能な」領域を治療の対象にしていることで、数値化も測定もできず、「科学的に」効果があったかどうかがわからないことに、医師たちは困ったようだ。
そこで、測定できる部分を対象にしようと、先に「行動療法」が生まれ、のちに「認知療法」が生まれた。前者は「行動」を矯正することを「治療の効果」とし、後者は「思考(意識)」を矯正することを「治療の効果」とした。
両者の共通点は、
- その方法がマニュアル化され、多くの人が同じものを習得できる
- 測定できる領域を対象としている
ということで、両者を組みわあせた「認知行動療法」はその利便性から医学界の支持を得て、精神療法の主流となっている。
と、ここまで読んでみてわかるのは、
「認知行動療法が支持されるのは、医師にとって都合がいいから」とも言える、ということだ。
認知行動療法では、物質的にきわめてわかりにくい「精神」を扱う中で、科学的根拠をもって「治療の効果」を打ち出すことができる。これは、科学者である医師にとってはとてもありがたいことだ。
しかし、それは、「今までわからなかった領域を把握できるようになった」というより、「把握できる部分の方に注目するようになった」ということであり、言い換えると、「治療すべきところを科学的に処置できるようになった」というより、「科学的に処置できる部分をもって治療すべき分野だとした」のである。言い方は悪いが、「無難なところしか攻めていない」とも言える。
特に行動療法においては、行動が変わっただけで苦しみは変わらない、という治療の失敗としか言えない事態が起こりえてしまうが、それでも認知行動療法によって、患者本人の自己申告で「苦しみが減った」というのなら、その人にとっては治療の効果はあったのかもしれない。
しかし、心の病というのは、確実に無意識領域に巣食っていると思う。というのは、思考や行動も含め、患者本人の意識(自力)ではどうにもならない苦しみがあるからだ。症状・苦しみは、無意識領域から現れ、意識を支配する。あの認知モデルのように、まっさらな出来事に思考のフィルターがかかって生まれるのではない。もっと言うなら、その「思考」だって無意識から湧きおこる「自動思考」である。それが説得によって変わるかどうかは、4で述べた通り、その人の無意識次第なのだ。
認知行動療法では、思考と行動を変えることで、苦しみを減らし、できることを増やしていく。しかし、それは、無意識の部分(制御できない部分)の「慣れ」や「やる気」などに支えられているのであり、その部分に働きかけることはできない。少なくとも無意識がある程度健康な人にしかできない療法だと言えるのではないだろうか。
僕がここまでしてこの認知行動療法を批判している理由はここにある。
「いくら便利だからと言って、これで苦しんでいる人を助けられていると思わないでほしい!」
本当に苦しんでいるとき、「認知行動療法」という立派な名前の「治療法」を提示されると、否が応でも期待してしまうものだ。認知行動療法は、残念ながら、きっとその期待を見事に裏切っている。
治療を受ける気にもならないほど苦しんでいる人もいる。無意識の部分、意識や自力ではどうにもならない部分、心の病がまさに巣食っている部分を癒すことができなければ、これからどんな精神療法が生まれたところで同じようなものだ。もしその無意識領域が「脳」や「神経伝達物質」なら、あまり評判の良くない抗うつ薬などの方が治療対象に関しては正しいと思うし、期待もできる。
我々の苦しみを本当に癒してくれるのは、科学の他にはないだろう。我々がこの先苦しみ続けるのか、もしくはどこかで救われるのか、それは単にお医者様の手にかかっているのだ。だからこそ、苦しんでいる我々は医師に期待するし、助けてもらえなければ失望し、時にそれは怒りにもなる。
この先の医学の発展によって、死ぬこともできずにひたすら苦しみ続けている人々が、いつの日か救われることを願ってやまない。
*2:ここでいう「ストレス」とは、環境そのものではなく、環境から引き起こされる自分の内側の嫌な気分や苦しみである。
*3:正確に言うと、認知は自動思考のことだけではない。これまたウィキペディアによると、「心理学・言語学・脳科学・認知科学・情報科学などにおける認知とは、人間などが外界にある対象を知覚した上で、それが何であるかを判断したり解釈したりする過程のことをいう。意識と同義に用いられることもある」とある。しかし、知覚は完全に脳が視覚情報を処理する過程であり、人為でいじれるものではない。そして、判断・解釈は思考と同義でいいと思われるため、思考にしぼって話を進める。
*4:それでも行動療法でストレスを暴露(相手が泣くのにも構わず毛虫に触ってもらうなど)し、無理やりでも慣れてもらうみたいなことも行われている。それに耐えられる人ならそれで良いが、心を病んだ人にそれをするのが危険なのは言うまでもない。
心理カウンセラー・前田大輔先生の心療施術を実際に受けてみた感想
世の中には、医師や臨床心理士以外にも、「心の病を治せます」と広告し、その「治療」を生業としている人がいる。
この方もその一人。前田大輔先生。
このサイトを初めて見た方は、どのような感想をお持ちになるだろうか?
広告としてはよくできたサイトだと思う。何とかして楽になりたいと切に願う人にとっては、のどから手が出るほど購買欲が掻き立てられるかもしれない。
だが、よく見ると怪しい。
改善率94%とあるが、いつどのようにとった集計だろうか。
「本気で心の病を改善させたいと思っていない方は電話しないでください」というのは、ダイエットや植毛などの商品でよくある、客を煽るような手法だ。
「自分の味方になって自分を応援する」という意味もよくわからない。
「解放する催眠」というのも、よくわからない。催眠自体が神秘的な感じなので仕方がないことではあるのだが。
そしてなにより、その値段を見て驚愕する。
一回税込み20万円。
20万円!?
そもそも、物でもないのに一回20万円もする「何か」自体が珍しい。まあ実際に心の病が快癒するならそれぐらい払ってもいいのかもしれないが、評判も何も見つからない中、それだけのお金を払うのにはかなり勇気がいる。
とにかく、よくわからないがキラキラした雰囲気を持った「催眠」を謳い、はっきりした文体で、本当に苦しんでいる人をぐいぐい引き付けるような内容だ。これを見せられて受けたくならない人などいないのではないかというような。
この方のことを知ったきっかけは、あるウェブ漫画だった。ある日夜中に目が覚め、「うつ 画像」か何かで調べたところ、ヒットした。
そして、一気に読んでしまった。
うつ病になってしまった男の人が、いろいろ試した末、前田先生の施術でうつを治してもらう、という物語。
とにかく、視点が現実的で、経験者にはとても共感できる内容だった。
そして、一歩踏み出す勇気をもらった。
この漫画を読んで一念発起し、アドラー心理学やNLPなどを調べ、森田療法の原著にたどりつき、半年ほどがんばることができた。
しかし、やはり苦しみは変わらず、ついにこの前田先生の施術を実際に受けてみようと思うに至り、両親の許可を得て、彼のもとへ赴いた。
前田先生の施術に関しては、ネット上にその評判や実際に受けた感想などがほとんどない*1。実際に受けるか迷っている方のためにも、この記事で、その時のことを書いてみたいと思う。
(コメント欄でこの施術に関する質問をいただいたら、ご回答します。)
その1 電話相談
前田先生の心療施術について、電話でその中身を本人から説明してもらえる(無料)。その時点で施術を強要されることはなく、電話の内容を聞いたうえで施術を実際に受けるかどうか決めればよい。
パソコン用のサイトには相談用の電話番号が載っているが、スマホ用には載っていない(お客様・推薦者の声も載っていない)。僕はスマホからアクセスしたため、メールで電話相談の予約をする必要があった。
僕の場合は漫画や先生の著書を何冊か読んでおり、施術を受けるつもりだったので、施術を希望することと希望日時をメールで送った。
すると、10分ほどたって前田先生から電話がかかってきた。
はきはきと、丁寧な口調で、「自分がどんなことをするか」について説明してくれた。
簡単に言うと、
「自分がカウンセラーとなり、自分自身の心を元気にする方法を教える。そのために、自分の心の声を聴くのが催眠」
「本当の自分はどうしたかったのかがわかる」
ということだった。
漫画に出てきた人と自分が実際に話をしているということで、少しどきどきした。
電話口での前田先生の印象は、漫画に出てきたものと変わらない。親しみやすい口調で、元気にうれしそうに自分の考え・施術について話していた。
心理カウンセラーというが、こちらから話すことはほんどなかった。なんなら僕が何で苦しんでいるか、最後まで詳しくは知らなかったと思われる。「心の病の原因は同じだから、種類はわけなくてもいい」というのが先生の考えらしく、それが本当なら確かにこちらの病状を知ってもらう必要はない。
日時と場所について確認し、電話を切った。
その2 先生のオフィスへ
先生の施術は東京・神戸の二か所で受けられる。僕が予約したのは東京オフィスだった。
山手線の目黒駅から徒歩5~10分ほどのビルの一室にある。入り口が少しわかりにくいが、多少遅れても最後まで施術してくれる(逆に時間より早く来ても入れない)ということなので、道に迷って時間に遅れることを心配する必要はない。
前田先生の施術は、三つのパートに分かれている。
①カウンセリング・施術の説明
②心を健康にするノウハウの講座(「安心学®」)
③解放催眠
オフィスに行く際に同行者がいる場合、②までは同じ料金で同行者も一緒に受けることができる。そのうえで同行者も催眠をかけてもらいたくなったら、一人当たり料金の半額(10万円弱)をさらに追加することで受けることができる。
今回は、母についてきてもらい、二人で行った。
その3 「安心学」の講座
オフィスにつくと、最初に飲み物をいただき、これからすることの説明を受ける。
詳しくは書かないが、個人的に印象的だったのは、「自分がやることは科学ではなく哲学」だとおっしゃっていたことだ。
科学:相違点を見つける、分析・説得、理論的一貫性を重視
哲学:共通点を見つける、現実的妥当性を重視
前田先生は、哲学的な意味での「健康」を目指しているらしい。ただ、哲学的な健康と科学(医学)的な健康の違いはよくわからない。
正直この哲学についての話は、医学や心理学からの批判に対する主張として、そのようにおっしゃっているのではないかという印象を受けた。
「批判はされるけど、じゃああんたら(医師や心理士)患者さんを助けられてるの?僕のやり方は、理論としては穴があるかもわからんけど、実際に助けてるもん」(関西弁)
とのことで、こういうことを言われると、苦しんでいる身としては期待が膨らむ。
また、一般の心理学と先生が実践する心療施術の違いについてもお話しされていた。
「心理学は『人間の行動を統計的に分析したもの』であり、自分の心療施術で使うのは『個人が安心を得るために必要な知識』」。一般の心理学では一人ひとりの病んだ心を救うことはできない、とおっしゃっていた。
一般の心理療法(認知行動療法など)を受けてみてうまくいかなかった身としては、言いたいことはなんとなくわかった。
その後、施術を受けることに同意し、②の心の講座が始まる。
(①と②の間に甘いものを出してもらえる。僕のときは、先生の地元で有名なたい焼きをいただいた。)
これは、前田先生が今までの治療の中で、健康な人と心を病んだ人の違いを見出し、健康な人の共通点をまとめ、健康な人がしていることを教えてもらう、というものだ。
これを先生は「安心学」と名付け、特許を取得している。
「安心学®」は行動の統計による科学的アプローチではなく「安心」という最も重要なキーワードから心理を解き明かす最強のメンタルソリューション(心理的問題の解決法)です。
安心学は基本的に「心を健康にするカウンセラーとしての能力」を高めるものであり、患者自身にこの講座を受けてもらうのは、その能力によって自らの手で自分自身の心を健康にする、という趣旨のものだと思われる。
その中身までここに書いてしまうと著作権に引っかかるのかもしれないので、詳しくは書かない。
僕が一通り教えてもらった感想を述べる。
(心療施術の流れだけ見たい方はその4まで飛ばしちゃってください)
正直、ほとんど役に立たない。
そこにあったのは「そもそも実践できない」か「実践してみてもちっとも楽にならない」ものばかりだった。
先ほど述べた通り、前田先生の方法は、「自分で自分を癒す」というものだ。そこでは、「頭と心」「意識と無意識」のように、自分の中に意識で自由にできる部分(頭)とそうでない部分(心)の2つが仮定されている。
しかし、人間の精神は、本当に頭と心が完全に分かれているだろうか?
さらに言うと、意識(頭)は本当に自分の自由になるのだろうか?
自分の意識している自分とは別にもう一人の自分(心)を想定し、それを「癒す」「安心させる」というようなことが、普通の人にできるのだろうか?
もし本当に、どんなにひどいうつ病のさなかでも、自分が自由にできる部分(頭・思考)があり、それをどうにかすることで楽になることができるなら、誰かに言われるまでもなく既にやっているのではないだろうか。
だって、病んでいる人は他人にどうにかしてもらいたいほど苦しんでいるのだ。自分でどうにかできるなら、とっくにどうにかしている。
もちろん、自分で自分を喜ばせるというのは、健康な人なら普通にできるし、やっていることだ。自分へのご褒美にスイーツを買うとか、休日は趣味をして過ごすとか、嫌なことがあったら誰かに慰めてもらうとか。
だが、心を病んでしまった人は、感情そのものが壊れてしまっている。何をやっても苦しいし、何も感じないという人は多いだろう。そんな人に「自分を安心させよう」と言ったところで、安心感を感じること自体ができない以上、それは不可能である。
安心学のなかにあったのは、「健康な人がやっていること」「健康な人なら喜ぶ・安心すること」であり、病んだ人がそれらのやり方だけを真似して実践することなどできないのだ。
「足が丈夫な人は毎日ウォーキングをしています。だからあなたも適度に運動しましょう」と、骨折してまだ骨がくっついていない人に言うのは間違っている。安心学は、それくらいのことを病んだ人に求めているように感じられた。健康な人にとっては当たり前でも、病んだ人が実践するのは不可能に近いだろう。
また、前田先生は、「安心とは快の感情」だと言っていた。苦しんでいる人にとっては「楽」であるとも言えるだろう。
ならば、「自分が楽になるように頭(思考)・行動を変えてください」というのは、まさに認知行動療法ではないか。しかも、頭・心・自己虐待・自分で自分を安心させるなど、定義の曖昧な言葉を使った、わかりにくい認知行動療法である。
その違いと言えば、認知行動療法は楽になるようならばどんな思考でもOKで、安心学は具体的にどうすれば楽になるかが書いてある。安心学の方が具体的であると言えるが、いくら具体的に方法を示したしたところで、その方法が実践できないものである以上、安心学は間違っているということになる。
「自分の心を安心させる」ための安心学は、残念ながら結局狭義の認知行動療法でしかないと思う。
ちなみに、安心学で教わる「心を楽にする方法」は、そのうちの大体のことが先生の著書にも載っている。(ここまで酷評してしまって何だが)もし興味がおありなら、大金を払ってこの施術を受ける前に一度読んでみることをおすすめする。
その4 催眠療法
安心学の講義だけで、3時間ほどかかる。その後、横になって催眠をかけてもらう。
この催眠だが、何をされるのかというと、
「ソファか長椅子に横になり、穏やかな音楽をかけてもらい、先生の言葉に従って極力体の力を抜き、昔のことを思い出していく」
というものだ。
催眠状態と言っても、「音楽+脱力+先生の言葉」の3つしか使わない。その音楽もいわゆる「自律神経を整える」系の、Youtubeなどでも聞けるようなものだ。先生の催眠療法は、怪しい行為では全くない。
これも、残念ながら僕には全く効果がなかった。
本当に横になって昔のことを思い出しただけで、涙があふれることもなければ温かい気持ちにもならなかった。
いや、正確には極度のリラックス状態であったから、不快ではなかったし、想像の中で感動的な感じにもなったが、それだけであった。「君の名は。」を見ていた時の方がよっぽど感動していたと思う。
先生いわく、「何も思い出せなくても、何なら寝てしまっても効果はある」とのことで、実際に催眠を受けた時点では何も見えなかったと言う人が、家に帰ってから一人で泣いていたりすることもあったらしい。
しかし、僕の場合はその後何も起きなかったし、今に至るまでずっと苦しいままだ。
この催眠は、効く人には効くのかもしれないな、と思う。僕は催眠などというものを受けたのは初めてだったが、それでも「催眠術の中でも多分かなり質のいい方だろう」と思わせるような雰囲気があった。
おそらく、この心療施術プランで症状が改善した方は、安心学があのようなものだった以上、そのほとんどが催眠のおかげなのではないかと思う。効く人には効くような「気がする」。これはあくまで僕の感覚であるし、実際どのように作用するのかは、僕には効かなかったのでわからない。
ちなみに、催眠で使った音楽は、CDに焼いて配ってくれる。これを聞きながら横になっていれば、実際に催眠を受けるのと同じような効果があるらしい。僕も家に帰って何回かやってみたが、今度は本当に寝てしまった。リラックスするにはちょうどいい音楽なので、睡眠導入用にはもってこいである。
この催眠と②の安心学の関係について聞いてみると、
「催眠によって今まで押さえつけてきた心を解放し、心の本当の欲求を知る。そのうえで、安心学を用いて、素直になった心を守っていってもらう」
といったようなことをおっしゃっていたが、明確な答えは返ってこなかった。
どうやら、催眠療法と安心学に直接の関係はなく、催眠の方を先に始めたようだ。
先生の話によると、それまで飲食など様々な仕事をしていたが、阪神淡路大震災をきっかけに、「これからの時代は人の心だ」と思い至り、催眠術を習い始めたそうだ。最初はいわゆる「心をあやつる催眠」(体が勝手に固まる、みたいな)をやっていたが、あるときマリッジブルーになってしまった新婚さん(妊婦さん?)を催眠状態にしたところ、「えらく深く入った」そうで、先生が何か暗示をかけるまでもなくその方は勝手に涙を流し、「自分の本当の心がわかりました、ありがとうございます」と大いに感謝されたのだとか。
それ以降心理療法の道に進んだということだそうで、その成り立ちから考えるに、安心学は「催眠療法をするなかで気づいたこと」の集積であると思われる。あくまで催眠療法がこの心療施術の要なのだろう。
その5 その後
施術を受け終わったのは夜の8時くらいであった。始まりが昼の1時半ごろだったことを思うと、普通よりだいぶ長引いたと思う。どうやら先生にとって僕はしゃべりやすい相手だったらしく、たくさん話をしてくれた。
しかし、先ほども書いたように、今に至るまでこの心療施術の効果だと思われるようなものは何も現れていない。
安心学を実行しようにも、前述のとおり実行できないかやっても楽にならないものばかりなので、効果はない。いまだに苦しいままである。
それなら前田先生に電話で相談すればいいのであるが、実は施術以降一度も電話をしていない。正直に言ってしまうと、再び先生の声を聴く気にならないのだ。
前田先生は決して悪い人ではないし、催眠術も安心学も、先生が真面目に作り上げてきたものなのだと思う。
だが、とにかく自信たっぷりで、きつい言い方もされる。ご本人が(精神科に行くレベルで)心を病んだ経験がないのだろう。心を病んだ身で、あのパワフルな人間に接するのは少ししんどい*2。
それに、僕が電話で相談したところで批判になってしまうし、言い合いになるのは御免だ。話がしたくないのなら、それはまさに先生の言う「本心」だろう。無理して電話すれば、それこそ安心学に反する。
まとめ
残念ながら、僕には全く効果がありませんでした。
以下、一人のクライアントとして、この心療施術を評価したいと思う。
〈良かった点〉
・押しつけ商法にならないよう、どこからお金が発生するかをはっきりさせていた
・施術は一回、日帰りで済むので、効果のないカウンセリングをだらだらと続けることにはならない
・同行者にも追加料金なしで安心学をレクチャーしてもらえる
・催眠療法はおそらく質が高く、効くと感じる人はいると思われる
・先生の人柄に元気をもらう人もいるかもしれない
〈悪かった点〉
・とにかく高い。そりゃあ治ればいくら払ってもいいのかもしれないが、まず受けに行くのを躊躇する。これでは苦しむ人の助かりたい切実な気持ちを商売に使っていると言われても仕方がない
・先生の口調がきつい。説明がヒートアップすると圧倒される。心を病んでしまったクライアントさんの中には、先生の言い方で元気をなくす人もいるのではないか
・安心学は残念ながらほとんど役に立たない。少なくとも本当に苦しんでいる人には実践できないし、やっていることは認知行動療法と似たようなもの
・治らない人は治らないし、その場合20万円が無駄になる
そして、最初の心療施術のサイトには、疑問を呈させていただきたい。
まず、「2週間以内の改善率94%」というのは根拠のある数字だろうか。僕は改善しなかった方の人間だが、施術後に改善したかどうかの調査は来ていない。
つぎに、「うつ病・パニック」が「必ずよくなる」というのは明らかに過大広告だ。僕が先生から聞いた話の中に、重篤なうつ病や不安障害の症例はなかった。
本当にあなたの心療施術にたくさんの人を救える自信があるなら、まず病院で本当に苦しんでいる方々を助け、そのうえで堂々と「うつ病を治せます」と掲げればいい。
それができないなら、申し訳ないが、あなたの施術もその広告サイトも、本当に苦しんでいる人々の気持ちをかき乱し、彼らから金を吸い取っていると言わざるを得ない。
この手の「心の病を治せます」という広告は、治せなかった時点で、その患者にとっては全てが虚偽広告になることを忘れてはならないと思う。これは苦しんでいる人が対象なのだ。「『おいしいピザ』の広告を見て実際に食べに行ったピザがおいしくなかった」みたいな話とはわけが違う。
あなたは本当に病んだ経験がないからわからないかもしれないが、心の病に苦しんでいる人は、来る日も来る日も苦痛に耐えながら、いつか楽になる日が来るのではないかと思って必死に生きている。そういう人にとって「うつが治せます」みたいな広告は、腹ペコの犬の前に肉をぶら下げているようなもので、喉から手が出るほど手に入れたくなるものだ。だからこそ、明らかにおかしい値段で、詐欺広告にしか見えないようなサイトであっても、一縷の望みを託し、大金を払ってわざわざ施術を受けに行くのである。それでも全く改善しなかったときの患者の失望を考慮したうえで、あのサイトをつくっているのだろうか?あの値段設定なのだろうか?
あなたの施術は絶対ではない。あのようなサイトが、そのサイトだけで、苦しんでいる人の気持ちをかき乱すことをどうか知ってほしい。「治るかもしれないけど治らないかもしれない、これで治るのだったら今受けておかないとこの先の人生損する、でも治らなかったら20万円捨てるようなもんだし、どうしよう、どうしよう・・・また騙されるのは嫌だけど、もしこれで治るんだったら受けなきゃ、どうしよう・・・」という悩みを、このサイトにたどり着いた一人ひとりにさせているのだ。心の病に苦しむ人は、それだけ真剣なのだ。このことを、「心の病を治せます」と謳う全ての「療法家」にどうか知ってもらいたい。
総括すると、
・内容自体は悪いとは言い切れないが、高すぎる。安心学もアフターフォローもなしで、催眠療法だけで一回2~3万円というのが妥当ではないか。
・先生本人は悪い人ではないと思うが、本当に自信があるなら医学に進出すべきで、それがない時点でやはり施術の効果は怪しい。効果の怪しい施術に、あのような過大広告をするべきではない。あのような広告サイトが心の病に苦しむ人の気持ちをいかにかき乱すか知って、適正な表示をするように努めてほしい。
最後に、実際に受けようかどうか迷っている方へ。
催眠自体は人によっては効果があるかもしれません。「横になって先生の声を聴きながら、物凄くリラックスして昔のことを思い出す」ことで改善しそうだと思い、かつそれに20万円払ってもいいと思う方は、受けてもいいでしょう。
ただ、迷っている方、サイトを見て「これを受けなければ治らないのではないか」「これを受けないと残りの人生を損するのではないか」といった強迫観念のようなものに駆られている方は、受けなくてもいいと思います。それはサイトに苦しめられているだけで、言うならば不安症状の一種で名はないかと思います。
考えてみてください。世の中には「うつを治せます」みたいな商売がたくさんあります。それらの効果の真偽も根拠も不明な「施術」を、今回のように見つけるたびに動揺し、受けなければならないとしたら、いくらお金があっても足りません。それらを受けない理由は、お金が足りなくなることはもちろん、「どうせまた治らないだろう」と思えるからです。そして、その予想はきっと正しい。もし本当に治せるなら、とっくに医学が注目しているはずなのです。
この前田先生の施術は、「うつ病」が「必ず良くなる」と書いてある点、だいぶ心を揺さぶられると思います。しかし、僕は実際に受けた身として、ほぼ確信をもって「過大広告」「嘘」だと言いたい。結局、他の「治せます」サイトと変わりません。何なら先生自身が批判していた「他の心理療法」とも変わらない。治らない人には治らないのです。むしろ値段が高すぎる点で、前田先生の施術の方が経済的には劣っています。
僕が言える確かなことは、「他の『心の病を治せます』広告を信じないならば、前田先生の施術も受ける必要はない」ということです。
あのサイトや先生の電話相談で「これだ!」と確信した方や、とにかく治りそうなものをなんでも試してみたい方は受けてみてもいいのではないかと思います*3。
以上が前田大輔先生の心療施術を実際に受けた感想です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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#感想
#評判
*1:そのことを前田先生は「これだけネットが発達したなかで、批判の記事が全くない」ということで、ご自身が信用に値することの根拠のように語っておられた。
*2:だが、ひと月に4・5回も電話し、治った人もいるらしいので、これは相性かもしれない。合わない人もいる、ということにしたい。
*3:こういうことを書くと、「治ると思えば治るのに、そう思えなくなってきた」「この体験談を読んだせいで、前田先生の施術に疑問を感じ、そのせいで効果が減るのではないか」と思う方もいるかもしれない。だが、少なくとも僕は治してもらう気満々で行って治らなかった。また、過去には疑わしさMAXで先生の言うことを論破する気満々で施術を受けに行って治ってしまった人もいるらしいので、おそらく関係ない。心を病んだ人にとってとにかく厄介なのはこの手の「治るのではないか」「治らないのではないか」という強迫観念で、それを呼び起こすこの手のサイトはやはりたちが悪いと思う。
はじめまして。
初めまして。「心の病に文句を言うブログ」を見ていただきありがとうございます。
このブログでは、僕自身が心の病(適応障害)になり、精神科に通ったり服薬したり、カウンセラーのもとに通ったりするなかで思ったこと・考えたことをつづっていきます。
主に精神科・心理士など、現在の心の病の「治療」に対する疑問を書いていこうと思います。
本当に医者やカウンセラーは心の病に苦しんでいる人を救っているのだろうか?
どうすれば楽になれるのだろうか?
どうすれば健康になれるのだろうか?
そのようなことを、自分の経験から心の病について分析し、できるだけきれいごとは言わず、現実的に考えていきたいと思っています。
よろしくお願いします。