心の病に文句を言うブログ

主に精神医学・心理学への疑問など。

認知行動療法批判

認知行動療法(CBT, Cognintive Behavioural Therapy)は、おそらく現代でもっとも有名な精神療法だと思う。

 

いわゆる「薬以外」で心の病を治す方法として、心を病んでしまった方は、一度は聞いたことがあるのではないだろうか。

 

 

認知行動療法」と検索すると、やけに難しい説明が出てくるが、シンプルに言うと下の図のモデルに基づいている*1

 

 

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具体的に言うと、以下のようになる。

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そして、上のモデルを当てはめるに際し、患者が「いつ、どこで、どのようなときに」苦痛を感じるのかを徹底的に分析する

 

この療法をまとめると、

「世の中のあらゆる事象には、本来良いも悪いもない。それを区別しているのは人間の認知であり、認知が歪んでいると、本来ストレスにならないものまでストレスに感じてしまう。そこで、認知の歪みを矯正し、行動を変えていくことで、ストレスや自身の苦しみを克服していこう」

ということになると思う。

 

心を病んで苦しんでいるみなさんは、これを見てどう思われるだろうか?

 

ウィキペディアでは、

 

認知行動療法は、うつ病パニック障害強迫性障害不眠症薬物依存症摂食障害統合失調症などにおいて、科学的根拠に基づいて有効性が報告されている[4][5]。また自殺企図を半分程度に減少させる[6]。 

 

と、効果的な治療法として紹介されている。

 

果たして、本当だろうか? 

 

僕は、この認知行動療法に対して、心の病に有効な治療法ではないと思う。

 

これで患者を助けられていると思う医者や心理士がいれば、とんでもないと言いたい。

 

このことについて、これからその理由を述べたい。

 

 

. 心の病との関係は?

 

まず、上のモデルは、心の病になってしまった人に限らず、健康な人にも当てはまるはずのものだ。

そして、心を病んだ人と健康な人について、同じモデルが用いられている。

 

では、認知行動療法は、心の病の何を軽減させてくれるのだろうか?

 

考えられることは3つある。

1つは、

「『気分(感情・身体反応)=症状』として、認知の歪みの矯正によって症状自体を和らげる」

というものだ。

 

例えば、うつ病の場合、症状としてあげられる

  • 抑うつ気分
  • 意欲の低下
  • 焦り・不安
  • 感情の喪失

などの心(精神)の症状や、

  • 睡眠障害
  • 倦怠感
  • 食欲低下
  • 頭痛・吐き気・肩の凝りなど

といった体の症状を、モデルの「気分」の部分に当てはめ、認知を変えることでそれらを軽くする、というものである。

 

だが、これにはどう考えても無理がある。

 

実際にうつ病になってみればすぐにわかると思うが、

うつ病の症状は、何もしていなくてもその人を苦しめ続けるものであり、出来事によって引き起こされるものではない

そして、

苦しみの前に常に認知(自動思考)があるわけでもない

 

症状や苦しみは、それそのものが心を病んだ人の精神に居座り続けているのであって、これは健康な人の気分の落ち込みや不安な気持ちなどが一時的であるのとは根本的に異なるのだ。

 

一方、適応障害や、いわゆる「不安系」、パニック障害や恐怖症など、特定の状況下で苦しみが発生するものには当てはめることができる。

 

しかし、その場合、モデル自体が現実と合致していないのではないかという疑問を感じる。このことは後で述べる。

 

2つ目に考えられるのは、

「認知によって生まれる悪い気分がストレスとなり、これが心の病の原因となるので、それを軽くすることで心の病の原因を取り除く」

というものだ。

 

これをモデルで表すとこうなる。

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 「気分」のところがストレス*2になる。

 

この場合、「ストレスが減れば自然に心の病も軽くなる」のだとすれば、認知行動療法は効果があると言える。

 

しかし、1つ目の適応障害や不安系の症状についても当てはまるが、ここで大事なのは、この方法で実際にストレスを軽減できる(=心を病んだ人が楽に感じられる)のかどうかだ。

つまり、「認知を変えればストレスは本当に減るのか」「本当に認知は任意に変えられるのか」「そもそも認知は必ずストレスに先立っているのか」など、数々の疑問がある。これは後で詳しく見ていきたいと思う。

 

3つ目は、

「歪んだ認知(自動思考)=症状」であるとみて、心の病で狂ってしまった認知を意識的に作り変える、 というものだ。

 

確かにうつ病の症状を見ても、

  • 自責の念
  • 悪いことばかり考えてしまう

といった、思考に関する症状がある。これらをもし人為的に矯正できたとすれば、どうなるだろうか。

 

1つは、数ある症状の中から思考に関するものだけ改善される場合だ。

意欲の低下・不安感・感情の喪失はそのままで、世の中の出来事を健康な人と同じように認知できるようになる。

もう1つは、先ほど書いたように、認知が矯正され、ストレスが減ることで心の病が回復していく場合である。

 

どちらにしても、理論上は(もし実現するならば)夢の治療法だ。だが、あくまで理論である。

そもそも、認知の歪みが思考という一見なんとかなりそうなものだからと言って、これが症状である以上、それだけが人為的に何とかなるということがあるだろうか

 

これだけ見てもわかる通り、この療法の理論(モデル)と心の病の症状や苦しみがどのように関係しているのか、はっきりしていないところがある。少なくとも僕が接した医師・心理士・専門書が、それをはっきり示してくれたことはなかった。心の病の何を治すのかが曖昧なのだ。医師という理系の権威ともいえる方々が生み出した方法にしては、論理的明確さがないように思う。

 

さらに、どうもこの療法は、理論上は(モデルの上では)うまくいくのかもしれないが、実際にはうまくいかないように思われる。そこには、理論そのものに間違いがあるという気がしてならない。

これから、理論そのものへの疑問について述べて行こうと思う。

 

2. 認知は必ず気分・感情に先立つのか?

 

 先ほどのモデルを再掲する。

 

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このモデルを説明するときによく言われることがある。

「世の中もあらゆる物事や出来事には、いいも悪いもありません。人間が意味づけているのです。ですから、考え方さえ変えれば、だいぶ楽になりますよ」

みたいなことである。

 

だが、例えば、虫嫌いの人が毛虫を見かけたときのことを考えてほしい。

(リンクに飛ぶとこの先の話が分かりやすくなるかもしれません^^)

 

その人はきっと毛虫を見かけた瞬間、嫌な気持ちになっている。少なくとも思考が挟まる余地はない。

(ばっちり写真を見てしまったみなさん申し訳ありません^^)

 むしろ、思考(言語)は気分の後から来るのではないか*3

「こいつ何でこんな毒々しい見た目なのかな」

「触ったら手がとんでもないことに…」

「これが服の中に入ると思うと…」

など。

まずは嫌な気持ち、というか生理的嫌悪感みたいなものが最初に反射的に来て、その後に言語が来る。言語はそんなに早く反応で出てくるものではない。

 

ところが、認知行動療法では、思考が先に来るかのような解釈をする。

  1. 出来事 毛虫を見つける
  2. 認知 「刺されたらどうしよう…」
  3. 気分 嫌な気持ちになる
  4. 行動 毛虫を避けて通る

まあ、おそらくこの療法を施している人も、思考がそこまで早く来るものではないというのはわかっていると思うので、正確には「毛虫を認識した後嫌悪感が湧いてくるまでの一瞬の間の心の中を言葉にしてください」という意味で認知というものを用いているのだと思う。

だが、このモデルはさも思考や言語によって「嫌な気持ちが生まれる」かのような表し方であり、それは間違いだ。たとえ認知が出来事と気分の間に存在したとしても、それは反射である。思考ではない。そういう考え方の方が皆さんの共感を得られるのではないだろうか。

 

ただ、このモデルは、実際に正しいかどうかはともかく、「毛虫への苦手意識を克服する」(山奥の虫が出まくる旅館で働かなければならない人など)ためには役に立つのは事実である。

これに対する認知行動療法の一例としては、

  1. まず認知療法として「毛虫には素手で触らなければ害はない」ということに本心から納得する。
  2. 次に、行動療法として、毛虫に慣れるように頑張ってみる。毛虫をしばらくの見続けるとか、ゴム手袋をしてつかんでみるなど。

このようにして、簡単に言うと毛虫に「慣れる」ことで、そのうち毛虫を見た時に起きていた反射的な嫌悪感自体が湧かなくなってくるのだ。

 

この一連の流れを並べるとこうなる。

  1. 出来事 毛虫を見つける
  2. 気分【反射】 嫌悪感が湧く
  3. 思考 「毒々しいな、触りたくないな」
  4. 行動 毛虫を避ける

これに認知行動療法を施すと、

  1. 出来事 毛虫を見つける
  2. 気分【反射】 嫌悪感が湧く
  3. 思考を矯正 「素手で触らなければ害はない」
  4. 行動を矯正 がんばって毛虫と触れ合う
  5. 結果 反射的に起こっていた嫌悪感そのものが減る

 

つまり、「『慣れる』ために思考や行動を何とかする」のが認知行動療法であり、「認知を別の言語で置き換える」というのとは少し異なる。嫌悪感がなくなった後毛虫を見た場合、

  1. 出来事 毛虫を見つける
  2. 気分【反射】 嫌悪感があまり湧かない
  3. 思考 「別に触らなきゃ大丈夫だし、なんだかかわいく見えてきたぞ」
  4. 行動 毛虫に構うことなく生活する

というように、反射で嫌悪感が湧かなくなったからこそ思考が変化するのであり、認知行動療法で当てはめようとした思考が受け入れられるのである。それを「認知の変化」と表現できないことはないが、あくまでそれは反射なのであって、自動思考自体は気分の後に生まれるものである。

 

この例ではわかりやすく毛虫をとりあげたが、毛虫に限らず、人間のあらゆる感情は何かを認識したと同時に湧いてくるものだと思う。例え毛虫じゃなくて苦手な人だろうが、苦手な状況だろうが、環境に応じて無意識のうちに勝手に湧いてくるのが気分であり、感情であり、症状・苦しみである

 

なぜこんなことを強調しているのかというと、和らげる対象がストレスであれ症状そのものであれ、大事なのは反射・反応が変化することであり、反射的に嫌な気分・苦しみが湧かなくなることであるということを確認するためだ。それに必要なのは「慣れ」である。

 

それは逆に言うと、いくら思考をいじったところで嫌な気分が改善しなければ意味がないのであり、「慣れ」が働かなければ思考・行動を頑張って矯正したところで気分は変わらないのである。

 

ところが、例のモデルからだと、認知の変化そのもの、もっと言うとプラス思考になること自体が目的であるような印象を受ける。だが、特に心を病んだ人にとって、プラス思考をした方が苦しくなる場合もある。

 

それも含め、認知行動療法は、認知・行動の矯正自体が目的になると、心を病んだ人を楽にするためには逆効果になってしまうこともあると僕は思う。その理由を次に述べたい。

 

3. 逆効果になることも?

 

前述のとおり、認知行動療法で苦手な出来事を克服するということは、「思考・行動を変えることで苦痛を和らげ、その出来事に耐え、慣れるのを待つ」ということに他ならない。

 

これはすなわち、「何とか耐えてればそのうち慣れる」ということが前提である。逆に言うと、「思考を変えても苦しいまま」「いくら耐えても慣れない」ならば、治療を受けた人はいたずらに苦痛に耐えただけで、むしろつらい思いをすることになってしまう。

 

特に心を病んでしまった経験がある方は、その時のことを思い出してみていただきたい。

 

あなたは心を病んだ時、頑張って当時のつらい環境に居続ければ、そのうち慣れていただろうか?

 

そのつらさは、思考や行動の変化で和らぐようなものだっただろうか?

 

例えば、勤務先で適応障害を発症し、朝も起きれない、会社では体が震える、など会社に対して大きな苦しみを感じている人がいるとしよう。

 

その人に対し、何とかして仕事に耐えさせようとして、「上司はあなたを攻撃したいわけではありません」「全てを抱える必要はありません」というプラス思考を無理に当てはめようとしたら、どうなるだろうか?

 

その人の苦しみは、減るどころか、むしろ増えるのではないだろうか?

 

もしかしたら、「私はそうやって言われると心が楽になるんだけど…」と思った方がおられるかもしれない。ここが、心が健康な人と病んだ人の違いである。

 

心を病んで苦しんでいる人にとっては、その症状がうつ状態であれ不安であれ対人恐怖であれ、それに抗うことをやめて素直に休んでいた方が楽なのだ

いったん心を病んでしまうと、もはや思考・行動をどうにかするぐらいではその苦しみはどうすることもできないのである。

「ストレスとなる環境にいるだけで反射的に苦しみが生まれ、それは思考・行動ではどうにもならず、そこにいることが耐えられないし、頑張って耐えていても慣れるどころかどんどん苦しくなっていく」のだ。

 

そんな人にとって、症状や「認知の歪み(マイナス思考)」というのは、その人がストレスを放棄して休息をとるための体のサインともいえる。

これは、風邪の症状とも似ている。熱・のどの痛み・倦怠感などは苦しい。苦しみを避けるために素直に寝ていればそのうち治るが、苦しみを何とかしてごまかして行動すると風邪をこじらせてしまうこともある。

そして、認知行動療法は、風邪の人に「そのうち治りますから」と言って働かせようとすることに似ている。もっと言うと、風邪を引いた人に風邪の原因となった寒いところに居続けさせようとしているのに近い。

 

そういう人に、無理やりプラス思考を当てはめてしまうと、休む方向に思考が向かなくなってしまう。全く意味のない、悪い方にしか行かない我慢を強いることになり、結局苦しみに耐えられなくてリタイアすることになる。

 

もし心を病んだ人が楽になるようにその人の思考を変えるとすれば、「休んでもいい」「苦しい時は家にいよう」「我慢することはない」のようなものであり、それは慣れを当てにして苦手を「克服」する認知行動療法とは全く異なる。

 

そういう苦しみのさなかにいる人に認知行動療法をすると、何とかしてストレスに慣れさせようとする試みは逆効果になるのだ。それは、苦しんでいる当事者に本当につらい思いをさせることになる。

 

4. 認知(自動思考)は人為的に変えられるようなものなのか?

 

さらに、これは今までの話と少し被るが、認知行動療法では、思考を変えるために「客観的分析」といういかにも理科的な手法を用いる。

 

具体的に言うと、

「毛虫は危険なのではないか」

という思考に対し、

  • 何故そう思うのか?(根拠)
  • 実際はどうだったのか?(反証)
  • この先もそうなのか?

など、自分でその思考に反論することで、自動思考を打ち消すことが技法のひとつになっている。

「毛虫は毒の毛が生えている」「昔指されて手が腫れあがったことがあった」などの根拠に対し、「手袋をつければ大丈夫」「長袖を着ていれば大丈夫」「毛虫が自分の上に落ちてきたことなどない」などと反論することで、今までの固定観念を破壊し、新たな思考を植え付けよう、というのである。

 

簡単に言うと、自分で納得できれば思考は変わるのであるが、逆に言うとどんな理屈があっても気持ち悪いものは気持ち悪いのであり、その感情が堅いものならばそれらの反論は受け入れられない。

 

「やっぱり気持ち悪くて無理!」には理屈もかなわないのである*4

 

そして、心を病んだ人にとってのストレスや苦しみは、特定の環境では頑として存在する。その苦しみに対して、理屈や正論なんぞがどれだけ効果を発揮するかは疑問である。

 

心を病んだ人にとっては、認知も思考も行動も、簡単に変えられるものではないのだ。その人を支配する巨大な苦しみに対しては、理屈など歯が立たないに違いない。認知行動療法をやってみようとしたところで、そもそも思考を変えることすらできないことも多いのである。

 

5. これは「治療」というほどのことなのか?

 

繰り返しになるが、結局のところ認知行動療法というのは、「できるだけ楽になるように考え、慣れるまで頑張って待つ」ということになる。

 

しかし、「楽になるように考える」ことなど、誰しもがある程度自分でやっていることだ。心を病んで苦しんでいれば、誰しもが少しでも楽になりたいと思うものである。

 

この療法が役に立つのは、その原理というより、

  • 医師・心理士が付きあってくれる
  • 目標までステップを設定してくれる

など、医師・心理士がトレーナーになってくれるところだ。

 

「ひとりで何かを克服するのは大変だけど、二人なら頑張れる」という意味で、ダイエットや家庭教師のような役割をしてくれる。

 

しかし、逆に言うと、医師や心理士はトレーナー以上の役割を果たしてくれることはない。相談に乗ってくれたり、励ましたり慰めてくれたりはするが、それだけだ。外科のように医師が手術で治してくれるわけではなく、苦痛を和らげてくれることもない。

 

つまり、あくまで患者が克服しようと思っていることが前提であり、その意志さえも失ってしまった人を救うことはできないのだ。手術後のリハビリに似ているところがある。

 

また、特に心を病んでしまった人の場合、元々努力家で、自力で立ち上がろうとすることも多い。味方がいてくれるのはありがたいかもしれないが、そういう人は、トレーナーがいなくても何とかしようと思える。

 

トレーナーが役に立つとすれば、「オーバーワーク(無理)を防ぐ」ということかもしれない。心を病んだ人は復帰に際して無理をしてしまうことも多く、それを「諫める」ことはできる。

 

しかし、当事者になってみればわかるが、「病んだ人が無理をする」のは、「余裕のなさ」「焦り」によるところが大きい。「無理をする」のは完全に治っていないことの証拠であり、症状の一種であるともいえる。それに対し、「無理はしないでね」と言うことに、どれだけ効果があるだろう。

 

そして何より、トレーナーをするだけならあのモデルは必要ない。「無理のない程度にがんばってください」ということだけですむわけで、少なくとも認知療法は関係ない。実際の認知行動療法でも、認知に関する部分はペーパーワークなどで自分で行うのである。これがえらく面倒なのだが、手間がかかることはここでは触れないことにする。

 

6. では、なぜ効果があるのか?

 

ここまで批判してきた認知行動療法だが、どうやら受けた人が効果を感じているのも事実らしい。もし僕が思うように認知行動療法に患者を助ける力がないのだとしたら、実際に受けた人が効果を感じていることには説明がつかない。

 

なぜ、実際に受けた人がある程度効果を感じているのだろうか?

 

考えられることの1つは、

「心の病が自然に治っていく時期にこの療法を行うので、効果があるように感じてしまう」

ということではないだろうか。

 

まず、精神療法は、その効果の測定はあくまで患者の主観をもとに行われる。

 

たとえば内蔵の病気やケガなどは、レントゲンなどで障害のある器官の修復度が客観的にわかる。

 しかし、障害を負ったのが精神である場合、それがどれだけ障害を負っているのか、どれだけ修復したのかはあくまで患者の主観でしかわからず、その効果も自己申告である。

せいぜい「治療前の苦しみを10としたら今はどれくらいですか」と数値化できるくらいだ。

 

であるから、「ある療法をやっていて、その時期に患者が楽になったと感じている」ならば、それをその療法の効果だとみなしているが、それが本当に療法のおかげであるかどうかは怪しいのである。相関はあっても、因果かどうかはわからないのだ。

 

先ほども述べたが、認知行動療法ができるのは、少なくとも「『病んだ自分を何とかしたい』と思えるくらいには元気になっている人」に限られる。そういう人がこの療法をやるわけであるから、この療法をやっている時期にこの療法がなかったとしてもある程度元気になっている可能性はあるし、この療法がなくても「慣れる」まで頑張れていた可能性もある。

 

もう一つ、効果を感じさせる理由としては、

「患者の行動によって治療の効果を測る場合、見かけ上は治っているようにみなすことができる

というものだ。

 

認知行動療法は、先述のとおり、患者にストレスや苦しみが起こる「場合」について徹底的に調べる。

例えば、「朝、出社の際に電車に乗ると、動悸が激しくなるので電車に乗れない」人の場合、「朝、出社の際に一駅分だけ電車に乗ってみる」「出来たら次は二駅分」というようにできることを増やしていく。

そして、「以前は一駅分も乗れなかったが、『治療の結果』会社の最寄り駅まで乗れるようになった」

として、これを治療の効果とする。

 

確かに、その人は電車に乗れるようになっている。

 

だが、この効果は永続的なものだろうか?

 

医師や心理士と一緒に取り組む間は何とか一生懸命頑張ることができても、医師から離れ、再び一人で出社せねばならなくなったとしたら、しかもこの先ずっとそうだとしたら、心が折れてしまう人もいるのではないだろうか?

そういう人たちが再び苦しむようになったとして、そのことが治療のデータに残っているのか疑問である。

 

また、たとえ結果的に電車に乗れるようになったとして、電車に乗っている時の苦しみは軽減されているのであろうか?

 

電車に乗れなくなってしまった人は、あまりの苦痛に耐えられずにそうなってしまっているのである。その人を、「第三者の手で半ば強制的に苦痛に耐えさせる」というのがこの療法だ。思考や行動(深呼吸など)で多少和らげられたとしても、その苦しみは大きなものである。「慣れ」が機能してくれればそのうち楽になってくるかもしれないが、逆にどんどん苦しくなってくることもありうる。

その結果は、「電車には乗れるようになったけどものすごく苦しい」かもしれないのであり、それでも乗れるようになっていれば「治療の効果」として評価されるのであり、この療法の「科学的根拠」になるのである。

 

それでたとえうまくいったとしても、それは「慣れ」のおかげであり、認知行動療法が「慣れ」を機能させたわけではないのだ。「慣れ」が利くかどうかは、療法には関係なく、運によるとも言えるのである。

 

また、もし一時的に「慣れ」が利いたとしても、医師・心理士が離れて以降も効果が続いているかどうかはわからない。どこかで耐えられずにまた以前のように戻っているかもしれない。

 

つまり、認知行動療法の「効果」は、

  • 認知行動療法によるものではない
  • 一時的に効果があるように見えているだけ
  • 本当に助けてほしいところへの効果ではない

のどれかである可能性があるのだ。

 

もし精神療法が、本当に心を病んだ人を「助ける」「救う」ためには、

  • 苦しみそのものを軽減させる
  • 利かない人の「慣れ」を機能させる

ようなものでなければならない。だが、病んだ人に一切触れずにそんなことが果たしてできるだろうか。やはり、これには薬などの摂取物や、外科的な処置の方が望みがあるように思われる。

 

7. まとめ

 

全体的に小難しくなってしまった。

ここまでの話をまとめる。

  • 認知行動療法は、現在主流の精神療法で、効果的だとされている。

しかし、

  • まず心の病の何を治療するかが曖昧である。
  • その原理であるモデルは、現実と乖離しているのではないか。
  • 苦しみの真っただ中にいる人には用いることができず、無理に用いると逆効果になることも
  • 「認知を変えられるかどうか」はこの療法では変えられない
  • 結局、この療法の効果を左右するのは、この療法では扱うことのできない部分(無意識、「慣れ」「やる気」など)である
  • 数値としては効果を上げていたとしても、この療法が本当に心を病んだ人を助けているかどうかは甚だ疑問である。

 

8. 認知行動療法がもてはやされるようになった経緯

 

ここからは余談になる。

それでは、なぜこの認知行動療法は、精神療法の主流になったのだろうか?

 

もともと、精神療法は、有名なフロイトが19世紀末(150年ほど前)に生み出した「精神分析」というものが主流であった。

 

これは、簡単に言うと、「患者の『無意識』にある心理的葛藤を、自由な連想や夢の分析によってあぶり出す」ことで患者の苦しみを癒す、というものだ。

 

これは当時ある程度病んだ人を救ったらしいのだが、

  • 習得するのが大変
  • マニュアル化することができない(方法が人によってバラバラ)
  • 効果があったのかどうかがわかりにくい

など、各方面から散々な批判を浴びていた。

 

特に、精神分析「無意識」という「測定不能な」領域を治療の対象にしていることで、数値化も測定もできず、「科学的に」効果があったかどうかがわからないことに、医師たちは困ったようだ。

 

そこで、測定できる部分を対象にしようと、先に「行動療法」が生まれ、のちに「認知療法」が生まれた。前者は「行動」を矯正することを「治療の効果」とし、後者は「思考(意識)」を矯正することを「治療の効果」とした。

 

両者の共通点は、

  • その方法がマニュアル化され、多くの人が同じものを習得できる
  • 測定できる領域を対象としている

ということで、両者を組みわあせた「認知行動療法」はその利便性から医学界の支持を得て、精神療法の主流となっている。

 

と、ここまで読んでみてわかるのは、

認知行動療法が支持されるのは、医師にとって都合がいいから」とも言える、ということだ。

 

認知行動療法では、物質的にきわめてわかりにくい「精神」を扱う中で、科学的根拠をもって「治療の効果」を打ち出すことができる。これは、科学者である医師にとってはとてもありがたいことだ。

しかし、それは、「今までわからなかった領域を把握できるようになった」というより、「把握できる部分の方に注目するようになった」ということであり、言い換えると、「治療すべきところを科学的に処置できるようになった」というより、「科学的に処置できる部分をもって治療すべき分野だとした」のである。言い方は悪いが、「無難なところしか攻めていない」とも言える。

 

特に行動療法においては、行動が変わっただけで苦しみは変わらない、という治療の失敗としか言えない事態が起こりえてしまうが、それでも認知行動療法によって、患者本人の自己申告で「苦しみが減った」というのなら、その人にとっては治療の効果はあったのかもしれない。

 

しかし、心の病というのは、確実に無意識領域に巣食っていると思う。というのは、思考や行動も含め、患者本人の意識(自力)ではどうにもならない苦しみがあるからだ。症状・苦しみは、無意識領域から現れ、意識を支配する。あの認知モデルのように、まっさらな出来事に思考のフィルターがかかって生まれるのではない。もっと言うなら、その「思考」だって無意識から湧きおこる「自動思考」である。それが説得によって変わるかどうかは、4で述べた通り、その人の無意識次第なのだ。

 

認知行動療法では、思考と行動を変えることで、苦しみを減らし、できることを増やしていく。しかし、それは、無意識の部分(制御できない部分)の「慣れ」や「やる気」などに支えられているのであり、その部分に働きかけることはできない。少なくとも無意識がある程度健康な人にしかできない療法だと言えるのではないだろうか。

 

僕がここまでしてこの認知行動療法を批判している理由はここにある。

 

「いくら便利だからと言って、これで苦しんでいる人を助けられていると思わないでほしい!」

 

本当に苦しんでいるとき、「認知行動療法」という立派な名前の「治療法」を提示されると、否が応でも期待してしまうものだ。認知行動療法は、残念ながら、きっとその期待を見事に裏切っている。

 

治療を受ける気にもならないほど苦しんでいる人もいる。無意識の部分、意識や自力ではどうにもならない部分、心の病がまさに巣食っている部分を癒すことができなければ、これからどんな精神療法が生まれたところで同じようなものだ。もしその無意識領域が「脳」や「神経伝達物質」なら、あまり評判の良くない抗うつ薬などの方が治療対象に関しては正しいと思うし、期待もできる。

 

我々の苦しみを本当に癒してくれるのは、科学の他にはないだろう。我々がこの先苦しみ続けるのか、もしくはどこかで救われるのか、それは単にお医者様の手にかかっているのだ。だからこそ、苦しんでいる我々は医師に期待するし、助けてもらえなければ失望し、時にそれは怒りにもなる。

 

この先の医学の発展によって、死ぬこともできずにひたすら苦しみ続けている人々が、いつの日か救われることを願ってやまない。

*1:参考にした文献はこちら

*2:ここでいう「ストレス」とは、環境そのものではなく、環境から引き起こされる自分の内側の嫌な気分や苦しみである。

*3:正確に言うと、認知は自動思考のことだけではない。これまたウィキペディアによると、「心理学言語学脳科学認知科学情報科学などにおける認知とは、人間などが外界にある対象を知覚した上で、それが何であるかを判断したり解釈したりする過程のことをいう。意識と同義に用いられることもある」とある。しかし、知覚は完全に脳が視覚情報を処理する過程であり、人為でいじれるものではない。そして、判断・解釈は思考と同義でいいと思われるため、思考にしぼって話を進める。

*4:それでも行動療法でストレスを暴露(相手が泣くのにも構わず毛虫に触ってもらうなど)し、無理やりでも慣れてもらうみたいなことも行われている。それに耐えられる人ならそれで良いが、心を病んだ人にそれをするのが危険なのは言うまでもない。